ミャンマー合気会本部道場
ヤンゴン市街の北、シングッタヤの丘に巨大な黄金の姿を輝かせるシュエダゴォン・パヤー。その縁起は、今から遡ること2500年以上前、インドで仏陀から8本の聖髪を貰い受けた商人が、この地を訪れた際、それを奉納したことに始まるといわれています。
爾来、度重なる増設が行われ、100m近い高さをもつ仏塔を中心に60余りの塔がそれを囲む、壮大な寺院ができあがりました。今でも多くの仏教徒が住んでいるミャンマーでは、ここは生きた聖地であり、過去の遺跡や遺産ではありません。老若男女が集まり祈りを捧げる信仰の場です。
日中に見る姿にも圧倒されますが、ここは特に夕暮れ時と夜にライトアップされた姿が壮麗かつ優美です。周りに高い建物が全くなく、電力事情が悪いため、周りはほとんど真っ暗闇。そのため黄金の寺院だけが空間に浮かび上がったように見えるのです。今回訪問したミャンマー合気会の本部道場は、このシュエダゴォン・パヤーの東の大回廊の傍にありました。
ミャンマーは、ちょうど雨期が始まったところで、連日梅雨のようなじとじとした雨が降っていました。道場を訪問しようと考えていた日は、隣国バングラデシュを襲ったサイクロンの影響で、午後に1メートル先さえ見えなくなるような豪雨がありました。仕事でヤンゴン郊外にいた私は、道場に行けるかどうかが気がかりで、何度も雨の様子を窓から確かめました。幸い、夕方には嘘のように雨は上がり、タクシーを捕まえて道場に向かうことができました。
道場に着くと早く来ていた生徒達に招き入れられました。そこでまず驚いたのは、その窓からの眺めでした。本部道場は小さなビルの4階で、西側に大きな窓があり、シュエダゴォン・パヤー寺院が眺望できるようになっています。この国では珍しくない停電のため、道場内は薄暗く、この時輝いて見えたのは夕暮れ時の光を淡く反射したシュエダゴォン・パヤーだけでした。ここは窓からの眺めがアジアで最も美しい道場だと思いました。
ミャンマーの道場を訪問しようと思ったのには、二つ理由があります。まず、私が稽古をしている千代田区合気会で20年以上にわたり指導して下さっていた故山口清吾先生がビルマの合気道の創成期に指導に行かれていたからです。1953年にビルマ連邦共和国(現ミャンマー)に招聘され、マンダレー警察学校とラングーン(現ヤンゴン)大学で合気道を指導された村重有利先生に続き、山口先生は1958年7月より1961年まで同国の国防軍に合気道を指導されました。先生方の派遣は、日本政府が戦後賠償をお金で支払う代わりに、派遣した文化供与使節の一環でした。ビルマ合気会(現ミャンマー合気会)は、両先生に学んだ、ウ・タウン・ディン先生が1955年に設立し現在に続いています。そこで今でも山口先生が指導された名残があるのかどうか、それを見てみたい、というのが訪問の第一の理由です。(上は道場の壁にかけてあった写真。左が山口先生、右が村重先生)
二つ目は、戦後、海外で最初に合気道が正式に指導された国の現状を見てみたいということです。望月稔先生(のち養正館館長)がフランスやその周辺国で初めて合気道を披露したのが1953年、村重先生がビルマに行かれた時と同じ時期に当たります。(余談ですが、村重先生と望月先生は、合気道を見て感激した柔道の嘉納治五郎先生が、合気道の技術を学ぶ為に講道館から派遣した4名の内の2人でした。もう1名は富木健治先生です。)
その後、フランスは、阿部正、中園睦郎、野呂昌道、田村信喜といった先生方による普及活動の結果、日本に次いで最も合気道が盛んな国になりました。ところが、ビルマでは山口先生が帰国されたあと、軍事クーデターが起こり、社会主義化が進むとともに、鎖国に近い排外主義政策をとったため、日本のみならず世界の合気道界と交流が途絶えてしまいました。
日本の合気道指導者が同国に入ることは山口先生以後一人もなかったのです。(もしクーデターが発生していなければ、小林保雄先生が助手として2年間派遣される予定だったそうです。)
ミャンマーの合気道の存在は、1994年に富士通の大橋雄一氏(富士通合気道部)が仕事で同国を訪問した際に、ウ・タウン・ディン先生とミャンマー合気会を「再発見」し、合気会本部道場との関係を再構築されるまで、ほとんど世界に知られていませんでした。山口先生が同国を去ってから30年以上の月日が経っていたのです。その間、ウ・タウン・ディン先生は自宅の傍に野外道場を開き、合気道を指導してこられたということです。(左上写真は、ウ・タウン・ディン先生の肖像画)
ミャンマーには、現在、合気会茨城支部道場と関係が深いMyanmar Aikido Association(MMA: ミャンマー合気道協会)とタイの練武館道場と関係が深いMyanmar Aikikai New Organization(ミャンマー合気会)の二つの組織があります。両方の道場に日本からEメールを送ったのですが、MMAにはメールが届かず、ミャンマー合気会のウ・ミャ・セイン先生からだけ返答があったので、こちらの道場を訪問することにしました。(後で分かったことなのですが、ミャンマーとのメールのやり取りは政府に監視されているらしく、現在Gmailのアドレスしか使えません。MMAのアドレスはGmailでなかったため、おそらくはじかれたのでしょう。)
ウ・ミャ・セイン先生は1959年生まれ。1988年よりウ・タウン・ディン先生のもとで合気道を習い、現在4段。私が訪問したミャンマー合気会本部道場で指導をされており、傘下道場として、ヤンゴンに2つ、マンダレーに2つ、バングラデシュに接するヤカイン州の州都シットウェーに1つあります。
私が道場を訪問した日、先生に挨拶をして握手をしようとすると、スッと右手を引かれて、左手を出されました。先生はその日、軍の学校で合気道を指導をしていた時に右腕を骨折していたのです。野外で足場が悪く、受け身のときに腕を固い石にぶつけてしまった、と言っていました。あの1m先も見えない豪雨の中で指導していたのでしょうか。先生は背は私より低いぐらいで、背筋がすっと通っており、その目には武道家特有の厳しいものがありました。
あの右手でどう指導するのかと思っていたら、正面へ礼をし、こちらを向かれた途端、「右手が全く使えないので指導が出来ない。しかし、幸いなことにあなたが訪問してくれたから、今日は生徒達の指導をお願いします。」と突然言われました。
今までいろいろな道場を訪問したけれども、いきなり指導をしてくれと言われたのは初めてでした。この状況で断る訳にもいかず、了解し指導することにしました。
この日は、生徒は5名。そのうち1人はマンダレーの道場で指導していたキャウ・ティハさんで、1人は先生の御子息ミン・ナイン・オォさん、1人はアメリカから来ているNGOのスタッフ、ジョーさん、残り2名が中級者でした。千代田で普段稽古している通りの内容を指導しました。
先生は道場の角に正座して真剣な目でじっと稽古の様子を見つめられました。まぁ、全く緊張はしませんでしたが、必死になって教えたので、この夜はあっという間に1時間半が終ってしまいました。
次に訪問した木曜日の夜は、武器の稽古の日でした。この日も、また指導してくれと言われるのでないかと少し構えていたのですが、この日は先生が左手だけで組太刀の指導を行いました。生徒は選抜された5人のみ。この道場の広さが40畳弱であるため、少人数に絞って指導しているのでしょう。
内容は、いわゆる岩間道場で指導されている合気剣でした。先生は長年修行して来たことが伺える素晴しい体裁きで、メリハリのある技を見せてくれました。稽古で使った木刀はいわゆる剣道の素振り用のものとは違う、組太刀用の太く重いものでした。それを片手で振るのですからたいしたものです。
私はキャウ・ティハさんとずっと組んでいたのですが、集中力と気合い、そして指導に対する真摯な態度に感心させられました。(下の写真、左ウ・ミャ・セイン先生、右キャウ・ティハさん)
私は合気剣を全く稽古したことがなかったのですが、最近、千代田で海和先生に剣の基礎(構えや素振り)を教えてもらっていたのが大いに役立ちました。また、山嶋先生に教えてもらった新陰の体裁きが活き、ほとんどの動きに対応ができました。
ただ、正眼の構えが低く、正眼と下段の中間の高さであること、振りかぶったときに頭の後ろで切っ先が下がること、振り下ろしたときの姿勢が低いことは、違和感を感じました。相手が切っ先を下げて振りかぶるため、こちらは相手の動きを見ながら待っても十分合わせて切り結ぶことができました。
金曜日は、初心者も参加できる日ということで20名を超える生徒が集まり、私が教えることになりました。Kokorozashi道場の道場長ティン・トゥンさんとキャウ・ティハさんを受けにお願いし、人数が多いので遠くに投げない技を指導しました。
一応全員の手を取るように心がけましたが、他所様の道場で、また受身が十分に出来ない白帯がたくさんいたことから、怪我をさせないように気を使いできるだけ優しく接しました。
翌朝、受けを取ってくれた二人と数名の有段者が自主的に行っている朝稽古に誘われたのでこれにも参加し指導を行いました。人数が5名だったので、大きく動く回転投げなどの技を主に指導しました。この日は、稽古後に食事に誘っていただき、レストランでミャンマーの合気道事情についてティン・トゥンさんから聞くことができました。また、逆に合気道用語について、例えば武産合気道の「たけむす」とは何か、といった質問を受けました。
このように、体術は私がずっと指導することになったので、ミャンマー合気会の技の様子は生徒の動きを観察することで把握するしかありませんでした。ミャンマー合気会のウェブサイトには山口先生より合気体操15種と基本技50種が伝わっていると書いてあったので、それをまとめて見せてもらおうと考えていたのですが、こちらが指導して質問に答えることが主になってしまったのでその時間はありませんでした。ただ、ミャンマー合気会の紹介ビデオ2本をお土産としていただいたので、これを通じて山口先生が指導された技がどのようなものであるのか推測することができました。
実は私の手元に「合気道入門」藤平光一著(東都書房)という珍しい本があります。これは藤平先生がまだ合気会本部道場の師範部長をされていた1967年に出版されたもので、当時、合気会で指導されていた合気体操16種、実技50種が詳細に解説されています。ビデオに映っていた体操は、この合気体操と同じ動きでした。1960年前後に山口先生がビルマで指導された基本技もこの藤平先生の実技の分類と同じであったのではないかと思います。
合気体操は、合気道の実技の中ででてくる動きを取り出して、反復練習するために体操と名付けたもので、二教運動、小手返し運動、手首振運動、船漕ぎ運動、一教運動といったもので構成されており、日本の道場で準備体操として行っているものとほぼ同じです。実技は、片手取り、両手取り、肩取り、諸手取り(当時は、片手取り両手持ちと言っていた)、正面打ち、横面打ち、胸突き、後ろ技、婦人護身術、逮捕術という分類になっています。
YouTubeで「Koichi Tohei – The Founder of Shin Shin Toitsu Aikido」で検索すれば、藤平先生が実演している合気体操と実技の動画をみることができるので、興味のある方はご覧になって下さい。この映像は、藤平先生がまだ合気会に所属されている時に撮影されたもので、技の順番も「合気道入門」とほぼ同じになっています。
ミャンマー合気会で現在、実際に稽古されている動きは、おそらく山口先生が指導された技そのものではないと思います。1994年以降に指導に来られた先生方、特に茨城支部道場の師範の影響を強く受けていると感じました。
Kokorozashi道場の道場長ティン・トゥンさんが、ミャンマー合気会の古い写真を送って下さったので紹介します。
山口先生と村重先生を囲む生徒たち。当時、山口先生は30代前半で二段でした。
同じ部屋にて。山口先生はタバコを吸ってくつろいでますね。子供さんは誰なのでしょうか?
この写真はウ・タウン・ディン先生(中央)とウ・ミャ・セイン先生(左端)。